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二月騒動(にがつそうどう)

文永9年(1272年)2月に京都と鎌倉で起こった内乱。執権[しっけん]・北条時宗[ほうじょうときむね]の異母兄で六波羅探題[ろくはらたんだい]南方の北条時輔[ときすけ]が、一方的に反乱の嫌疑をかけられ、時宗の命を受けた六波羅探題北方の北条義宗[よしむね]によって殺害された。またこれに関連して、鎌倉の名越時章[なごえときあきら]・教時[のりとき]も、謀反の嫌疑をかけられ殺害された。これによって時宗の抵抗勢力は退けられ、得宗[とくそう]の権力が強化された。日蓮大聖人は、この内乱を「立正安国論」で予言された二難のうちの自界叛逆難[じかいほんぎゃくなん]が現実のものとなったと位置づけられている(957㌻)。
なお、名越時章・教時は、名越(江間)光時[みつとき]の弟であり、四条金吾はこの光時に仕えていた。このことと騒動との関連は不明だが、大聖人は、騒動の影響が御自身やその周辺に及ぶことを注視されるとともに、御自身がもし佐渡流罪とならず鎌倉にとどまっていたら、「有りし・いくさに一定打ち殺されなん」(1164㌻)と述懐されている。▷自界叛逆難/江間氏