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五重の相対(ごじゅうのそうたい)

日蓮大聖人「開目抄」で示された教判(教えの比較判定)を整理したもの。「開目抄」では、儒(外典中国の諸思想)、外道(インドの仏教以外の諸思想・宗教)、内道(仏教)について、その教えを幸・不幸をもたらす生命の因果をどう説くかという点から比較検討して、判定されている。これは、内外[ないげ]相対・大小[だいしょう]相対・権実[ごんじつ]相対・本迹[ほんじゃく]相対・種脱[しゅだつ]相対という5段階にわけて、教えを比較・判定する基準として整理される。なお、仏教については、中国教判の伝統を受け継ぎ、経典に説かれることに従い、すべての経典は釈尊が説いたものとみなして、比較し判定する。その際、伝統的に広く用いられた天台大師智顗の教説に基づく五時教判に従っている。
内外相対内道外道を比較したもの。内道とは仏教、外道とは仏教以外の諸思想・宗教をいう。「開目抄」では具体的に、バラモン教六師外道などのインドの諸思想・宗教、儒教・道教などの中国の諸思想をさす。内道外道の違いは、生死を超えて過去・現在・未来の三世にわたる生命の幸・不幸の因果を自身の内に見いだしているかいないかである。
内道は、現在のあらゆる幸・不幸は、自身の過去の行い(業)が原因となって、それが結果としての報いとなって現れたものであると捉える因果観に立つ。これによって、自身の運命を自身の手で決定できること、また、誤った行いをやめて正しい行いをすることによって、苦悩を離れゆるぎない幸福を確立できることを説く。このことから、内道である仏教を選び取っている。
大小相対。仏教の中で小乗教と大乗教を比較したもの。「乗」とは、乗る、乗せるという意味で、仏の教えが人々を覚りの境地へと導くさまを乗り物に譬えた語。声聞縁覚のための教えは、自分自身が覚り苦悩から解放されることを目指す。これは、他の人々の救済を重んじる菩薩のための教え(大乗〈=偉大な優れた教え〉と自称)の側からみると、小さな範囲の人々しか救えない教えなので、小さな乗り物に譬えられた。真の大乗以外の教えでは、苦悩の原因は自分自身の煩悩にあると説き、苦悩を解決するためには、煩悩を滅して迷いと苦悩の世界に再び生まれることなく解脱することを目指した。これを灰身滅智(身を焼いて灰にし、智慧を断滅する)という。
それに対して大乗教は、慈悲と智慧にあふれる仏になることを目指す菩薩のための教えであり、自分も他人もともに幸福になろうとし、多くの人々を救うことができるとする。すなわち、煩悩を消し去るために生命そのものを滅するのではなく、煩悩に満ち覆われた生命に菩提(覚り)の智慧を開き現していくこと(煩悩即菩提)を説く。そして、ついには、自身が仏と成ることを説く。これによって、大乗教を選び取っている。
権実相対大乗教を、仏の真実の覚りを明かした実大乗教(法華経)と、真実を明かすための準備・方便として説かれた権大乗教に立て分け、両者を比較したもの。権とは仮、実とは真実の意。大乗経典の中でも華厳経般若経阿弥陀経大日経などの諸経では二乗声聞縁覚)や悪人・女性の成仏を説かず、一切衆生成仏が明かされていない。また、成仏の明かされた人々についても、何度も生まれ変わって修行を積み重ねて(歴劫修行)はじめて成仏できると説く。さらに仏についても、阿弥陀仏大日如来など、人間を超越し、現実世界から遊離した世界に住む架空の仏を説く。これらは、各経で目指す理想の人格と世界を象徴的に誇張して投影したものである。
これに対して、法華経では、それ以前の諸経(爾前経)は覚りの真実を説くための方便の教えであり法華経がその真実を明かすと説く(開三顕一)。そして、一切衆生に仏の智慧の境涯(仏知見)がそなわりそれを開き現すことで成仏できることを説く。それには、諸経では認められていなかった二乗や悪人・女性も含まれる。また、仏についても、釈尊は実は五百塵点劫という長遠な過去に成仏していた(久遠実成)と明かし(開近顕遠)、これによって諸経の諸仏は釈尊分身として位置づけられる。これは、諸経の仏が、久遠実成釈尊のもつ特性の一部分を取り上げて説いたものにすぎないことを意味する。このように、諸経は仏の真実の覚りの法を説くための準備として、聞く人々の状態に合わせて説かれた一時的な方便であり、それに対して、法華経は仏の真実の覚りの法を直ちに説いた仏の真意である。それ故、実教を選び取っている。
本迹相対法華経28品を前半14品の迹門と後半14品の本門に立て分け、両者を比較したもの。本迹とは本地(仏・菩薩などの本来の境地)と垂迹衆生を教え導くために仮に現した姿)という意味。法華経の後半14品は釈尊本地を明かした法門なので本門といい、前半14品はまだ本地が明かされていないので迹門という。法華経の前半14品では、権教と同様、釈尊がインドの伽耶城(ガヤー)近くの菩提樹の下で今世で初めて覚りを得た(始成正覚)という立場で説かれている。
それに対して後半14品では、釈尊五百塵点劫という長遠な過去に成仏していた(久遠実成)という釈尊の真実の境地(本果)が明かされた。また、成仏のために菩薩道を行じたという因(本因)が示され、成仏を目指す菩薩としての寿命も今もなお尽きず今後も長く続くことが明かされた。これによって、菩薩をはじめとする九界仏界、すなわち十界すべての常住が明かされた。さらに迷いの衆生が住む娑婆世界久遠の仏が常住する国土であること(本国土)が明かされた。このように本因本果・本国土が明かされることによって、十界の依正の常住が示され、一念三千が事実の上で確立した。それ故、本門一念三千は、「事の一念三千」と位置づけられる。これに対して、迹門に説かれる一念三千は、方便品十如実相の文などによって理論上は確立しているが、それは事実の上ではなく、あくまで理論上にとどまっているので、「理の一念三千」と位置づけられる。このように、本門では釈尊の真実の境地(本地)、覚りの真実の全体が明かされて、現実に成仏する道が確立したのに対して、迹門ではまだ方便の教えが残り、成仏のための教えも理論上にとどまる。それ故、本門の教えを選び取っている。
種脱相対釈尊法華経文上本門日蓮大聖人の法門とを比較し、すでに下種調熟した機根の整ったものを得脱させる文上本門に対して、まだ功徳善根をまったく積んでいない機根の劣悪な凡夫であっても、下種の法を直ちに説いて得脱成仏させる教えを選び取ることを示すもの。
仏が衆生に初めて成仏の法を説き聞かせることを田畑に種を下ろすことに譬えて「下種」という。その後、さまざまな教えを説き聞かせて導いて次第に衆生機根を整えることを「調熟」という。そして、最終的に覚りを得させて苦悩から解放(解脱)させることを「得脱」という。
法華経本門文上の教えは、釈尊が過去に下種し、調熟させてきた衆生成仏させる、得脱利益脱益)をもっている。しかし、過去に釈尊に縁がなく、成仏のための功徳善根を積んでいない衆生は、脱益法華経では成仏することができない。釈尊に有縁の衆生は、在世の本門を中心として滅後の正法像法に、下種の本法を覚知して成仏得脱する。しかし末法娑婆世界衆生は、釈尊の法による下種結縁がなく、得脱していない者たちである。この者たちは、法華経寿量品文底に秘沈された南無妙法蓮華経という仏種成仏の根本因である法)を直ちに説き聞かせて下種結縁することで、成仏得脱することができる。この仏種は、法華経本門文上でも示されていない。
日蓮大聖人は、釈尊はじめ三世の諸仏を成仏させる根源の法、すなわち仏種一念三千であり、それが法華経題目である南無妙法蓮華経に納まっていると明かされた。そして南無妙法蓮華経を、末法衆生が信受して成仏するための御本尊として曼荼羅に顕された。以上の理由から、下種益の教えを選び取っている。▷「開目抄」