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蒙古襲来(もうこしゅうらい)

鎌倉時代、元(蒙古)が2度にわたって日本へ襲来したこと。文永[ぶんえい]の役[えき]、弘安[こうあん]の役のことをいい、元寇[げんこう]、モンゴル襲来ともいう。
蒙古の第5代皇帝・フビライは、高麗[こうらい]を征服した後、日本征服を企てた。文永3年(1266年)、通好を求める国書をもった使者が日本に派遣されたが、途中で引き返した。同5年(1268年)正月には、蒙古・高麗の国書をもった使者が日本へ到着したが、鎌倉幕府はこれに返書を与えず、その後も数度の使者を無視した。このため文永11年(1274年)、元は高麗軍を含む約3万の兵と船900余隻をもって日本討伐軍を起こし、10月5日に対馬[つしま]、14日に壱岐[いき]、20日には博多に上陸した。しかし、間もなくして本国に引き揚げた。これを「文永の役」という。
その後も元は使者を派遣してきたが、幕府は使者を斬って戦う姿勢を示した。元は弘安4年(1281年)、再び日本討伐軍を起こして約14万の兵を送り、7月末には九州北部に迫ったが、閏7月1日の台風により、軍の大半が沈没し敗走した。これを「弘安の役」という。その後、元は数度、日本征伐を計画したが、国内情勢の悪化で実現しなかった。
日蓮大聖人はこの蒙古襲来「立正安国論」で予言された他国侵逼難[たこくしんぴつなん]が的中したものとされている。▷他国侵逼難/壱岐・対馬