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日目上人(にちもくしょうにん)

1260年~1333年。日興上人の弟子。第3祖。伊豆国仁田郡畠郷(静岡県田方郡函南町畑毛)で父・新田重綱[にいだしげつな]、母・蓮阿尼[れんあに](南条時光の姉)の五男として生まれた。文永9年(1272年)に13歳にして伊豆走湯山円蔵坊に登り、同11年(1274年)に同所にて日興上人に出会い弟子となった。建治2年(1276年)11月には身延山に登って日蓮大聖人にお会いし、その後「卿公[きょうこう]」の名を与えられたと伝えられている(後に新田卿阿闍梨[にいだきょうあじゃり]と呼ばれた)。その後、大聖人常随給仕し、弘安2年(1279年)2月には御本尊を授与されている。弘安5年(1282年)9月、身延から池上に移られた大聖人に同行し、同地で伊勢法印[いせほういん]と問答を行ったと伝えられる。弘安5年10月の大聖人の葬儀に参列し、翌・同6年(1283年)正月に定め置かれた「墓所可守番帳事」では但馬公[たじまこう]と共に10月の当番に当たっている。また同年には俗縁・新田家の本貫地である奥州(東北地方)の教化に赴き、奥州や甲州(山梨県)などの諸寺の基礎を築いたと伝えられる。日興上人身延離山に際し、同行して大石寺塔中に蓮蔵坊を創建し、さらに日興上人が永仁6年(1298年)に重須の地に御影堂を建立して移った後は、蓮蔵坊にあって大石寺を管領した。また同年日興上人が筆録した「弟子分本尊目録」には、日興上人から本六の一人として記されている。国主への諫暁を重ね、正慶2年(1333年)、弟子の日尊[にちぞん]・日郷[にちごう]を伴い上奏のために京都へ旅に出たが、その途中、美濃国(岐阜県南部)の垂井で病を発し、同年11月15日に逝去した。▷日興上人