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中国への仏教伝来(ちゅうごくへのぶっきょうでんらい)

中国への仏教初伝について、「開目抄」には「後漢の第二・明帝の永平十年丁卯の年・仏法・漢土にわたる」(226㌻)とあり、日蓮大聖人明帝永平10年(67年)とされている。「四条金吾殿御返事」でも「中国には、後漢の第2代の明帝が、永平7年(64年)に金神の夢を見て、博士蔡愔[はかせさいいん]・王遵[おうじゅん]などの18人を月氏に派遣して仏法を求めさせたところ、中インド摩騰迦竺法蘭という二人の聖人を同10年丁卯の年(67年)に迎え入れ、崇重した」(1167㌻、通解)と述べられている。また、前漢の哀帝[あいてい]の元寿元年(紀元前2年)、大月氏王[だいげっしおう]の使者・伊存[いそん]が景盧[けいろ]なる人物に浮屠経[ふときょう](仏典)を口伝したという説もある。仏教が確実に伝来したことを示す史料としては、『後漢書』楚王英伝に後漢の明帝の詔があり、ここから明帝永平8年(65年)の時点で、楚王英[そおうえい]が仏を祭っていたことが読み取れる。いずれにせよ、紀元前後に西域からの朝貢や通商にともない、徐々に伝来したと考えられる。2世紀半ばから仏典が本格的に伝訳されるようになる。安息国(パルティア)の太子・安世高[あんせいこう]は、後漢の桓帝[かんてい]の建和年間(147年~149年)の初めに洛陽に来て、部派仏教の経典を中心に漢訳した。同時期の後漢の支婁迦讖[しるかせん]は、大乗経典を最初に漢訳したとされる。