生没年不詳。佐渡国の守護[しゅご]であった武蔵守[むさしのかみ]・北条(大仏)宣時[のぶとき]に仕えた武士。佐渡国の守護代(代官)を務めていた。相模国愛甲郡依智[えち]郷(神奈川県厚木市北部)にも所領があり、依智六郎左衛門尉とも呼ばれた。日蓮大聖人は文永8年(1271年)の竜の口の法難の後、流罪先の佐渡へ出発するまでの約1カ月間、依智の本間邸に滞在されている。佐渡到着後の11月1日、大聖人は配所としてあてがわれた塚原の三昧堂[さんまいどう]に到着されるが、そこは「六郎左衛門が家のうしろ」(916㌻)で、佐渡における重連の館とは至近にあったようである。
念仏者を中心とする佐渡の僧俗は、「阿弥陀仏の大怨敵」(917㌻)として大聖人の命をねらったが、重連はこれを制し、法門によって責めるようにと促した。その結果、文永9年(1272年)正月の対論(塚原問答[つかはらもんどう])が行われたが、逆に大聖人の正義を知らしめることとなった。この問答の際、重連は大聖人から近いうちに内乱が起きるからと鎌倉への出仕を促されるが、それが同年2月に起きた「二月騒動[にがつそうどう]」を予見したものであったことを重連が後で知るに及び、大聖人へ心を寄せるようになったようである。
文永10年(1273年)12月7日、武蔵前司[むさしのぜんじ](北条宣時)は本間重連に命令書を与えた。これは大聖人を一層厳しく取り締まる内容であったが、正式・公的なものではなく私的なものと思われる。大聖人はこの全文を3カ月後に著された「法華行者逢難事」(966~967㌻)に転載されている。大聖人は宣時の命令書を、おそらく重連もしくはその周囲の者を通じて披見できたものと思われ、これは重連の信用を示すものと理解されている。▷竜の口の法難/佐渡流罪/塚原問答/二月騒動/北条宣時