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根本有漏定(こんぽんうろじょう)

妙楽大師湛然『止観輔行伝弘決』巻7にある。天台大師智顗は仏教を信仰するにあたっては教観双美、すなわち教門(法門を教理的に理解すること)と観門(観法を実践すること)との両面にわたって修行することを理想とした。それ故、天台大師『摩訶止観』巻7下で、そのいずれかに偏っていた当時の学者を「文字の法師」(経典の文字にばかりとらわれて観心がない学者)、「事相の禅師」(具体的な実践に没頭しているだけの禅の修行者)として批判した。これを妙楽大師『止観輔行伝弘決』巻7で解釈した一節に「根本有漏定」という語がある。同書に「鼻膈[びかく]に心を止む乃至根本有漏定等なり」(228㌻で引用)とあり、これは「事相の禅師」が行っている禅定の実践を挙げたものである。「鼻膈に心を止む」とは「呼吸に注意を払う」実践で最も初歩的なもの。また「根本有漏定」は仏教以外のインドの諸思想で根本の実践とされていた禅定で、漏(煩悩)をまったく断ち切ることのできないもの。いずれも観心の修行と比較すれば、まったく初歩的なものである。「事相の禅師」の禅定は、これらの程度にとどまっていることを示されている。▷観心