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三位房(さんみぼう)

日蓮大聖人出家の弟子。三位房宛と伝承される「法門申さるべき様の事」(1268㌻)によれば、文永6年(1269年)3月ごろ、三位房は京都で学僧として修学中であったが、同年には公卿らに法門を談義し面目を施したとすることや、実名を尊成[そんじょう](後鳥羽上皇の名「尊成」と同字)に変更したなどを大聖人へ報告し、大聖人から叱責されている。三位房の才智に溺れる危うい傾向性を、このとき大聖人はすでに見抜かれていたものと推測される。その後、三位房は鎌倉を中心に活動し、大聖人竜の口の法難の時には大聖人の供奉として随行し、大聖人の処刑に殉ずる覚悟を述べていた(「頼基陳状」、1156㌻)。文永9年(1272年)には、日昭・大進阿闍梨[だいしんのあじゃり]とともに重書をいただいており、大聖人佐渡流罪中は鎌倉にあって日昭らとともに活動していたようである(「辦殿御消息」、1225㌻)。さらに大聖人の身延入山後においても、建治2年(1276年)7月、重要な法門を説き聞かせるからとして、日昭日朗とともに身延へ参るように指示されている。大聖人の薫陶を受けた三位房は、建治3年(1277年)6月、当時の鎌倉で人気を博していた竜象房を論破するが、体調を崩したことを理由に鎌倉から遠ざかる(「四条金吾殿御返事」、1164㌻)。その後、弘安2年(1279年)までの行動は記録がなく不明で、弘安2年10月の「聖人御難事」(1191㌻)では、名越の尼[なごえのあま]・少輔房能登房らとともに退転・反逆した者たちの一人として三位房の名が挙げられており、この2年の間に退転したことがうかがえる。さらに同抄では、三位房が不慮の死を遂げたことが記されている。▷竜象房/能登房/少輔房