1147年~1185年。平安末期の武将。平清盛の三男。中納言・右大将から内大臣・従一位となった。清盛の死後、平氏一門を統率したが木曾義仲[きそよしなか]に追われて都落ちし、安徳天皇を奉じて西走した。さらに源義経[みなもとのよしつね]の追い打ちを受けて一谷、屋島ヘ逃れ、壇ノ浦で大敗して捕らえられ、平氏は滅亡した。その後、義経によって鎌倉へ連行されたが、京へ送還される途中、近江(滋賀県)で斬罪に処せられた。
【宗盛はかぢわらをうやまう】「撰時抄」(287㌻)の文。「日本の平宗盛が捕虜となった時、敵である梶原景時[かじわらかげとき]を、間接的に助けになってくれたことで、敬ったようなものである」との意。平宗盛は、平家が壇ノ浦で滅びた時に捕らえられ、源義経によって鎌倉に護送された。梶原景時は、義経が今後の脅威となることを源頼朝に説いたため、義経は鎌倉に入ることができず、宗盛らを引き渡した後、引き返さなければならなかった。宗盛からすれば義経も景時も敵であることにちがいないが、景時のおかげで一時的に義経の手から解放されたということになった。それ故、同抄では「宗盛はかぢわらをうやまう」と表現されたと拝される。