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隆寛(りゅうかん)

1148年~1227年。隆観とも書く。平安末期・鎌倉初期の僧。浄土宗長楽寺流の開祖。藤原資隆[ふじわらのすけたか]の三男。はじめ比叡山天台学を学んだが、後に京都の長楽寺に住み、法然源空)の弟子となって浄土教を学んだ。法然の死後、専修念仏を広め、嘉禄3年(1227年)、比叡山の定照[じょうしょう]が『弾選択』を著して浄土教を排撃したのに対し、『顕選択』を著して応答した。そのため隆寛自身は定照らの訴えにより、同年7月に専修念仏禁止の宣旨が発せられて奥州への流罪が決まった。「念仏者・追放せしむる宣旨・御教書・五篇に集列する勘文状」には、同年9月26日の勅宣を引いて「隆寛律師専修の張本たるに依って山門より訴え申すの間・陸奥に配流せられ畢んぬ而るに衆徒尚申す旨有り仍って配所を改めて対馬の嶋に追い遣らる可きなり」(92㌻)と記されている。しかし、次下に「当時東国の辺に経回すと云云」と示されているように、隆寛に同情した御家人の毛利季光[もうりすえみつ](西阿[さいあ])によって、隆寛の弟子の実成房[じつじょうぼう]を身代わりに奥州に行かせ、本人は相模の飯山にとどまり、同年12月、同地において中風で倒れ没した。日蓮大聖人隆寛の悲惨な末路について、「当世念仏無間地獄事」に「何に況や念仏宗長者為る善慧・隆観・聖光・薩生・南無・真光等・皆悪瘡等の重病を受けて臨終に狂乱して死するの由之を聞き又之を知る、其の已下の念仏者の臨終の狂乱其の数を知らず」(106㌻)と仰せである。▷法然