一般的には、日常的な精神と肉体との合一体としての自己のこと。西洋哲学では「自我」(エゴ)といい、東洋哲学では「我」と呼ぶ。
❶西洋哲学では、ソクラテス、プラトンを先駆とする観念論による精神我の流れと、我を経験の統一体とするアリストテレスの「ヌース」の概念に始まる流れがある。中世はキリスト教により我の存在は否定された。しかし近世の「我の発見」により、精神我を優先するデカルトの観念論、カントの先験的自我などを生んだ。これに対してフィヒテやヘーゲルは外界を理性つまり自我の表象であるとし、自我を形而上学化、絶対化した。一方、マルクスは自我を社会的階級の一成員としてとらえた。
❷中国思想の我。生活のすべてを一個の生命のためにあるとする楊朱[ようしゅ]の「為我」(利己主義)と、老子の無為自然を旨とする虚無主義の立場がある。
❸インド思想の我。サンスクリットのアートマンを漢訳して我という。ウパニシャッド哲学では自身のなかに主体として実在し、一なるもの、主宰するものとしての「我(アートマン)」が強調され、梵(ブラフマン)との合一(梵我一如)を図る。
❹仏教思想の我。初期仏教では、無我説を取る。個々の衆生は五陰(色・受・想・行・識という心身を構成する五つの要素)が仮に和合した存在(五陰仮和合)であり、固定的・実体的な我はないとする。大乗仏教では、諸法無我(空)の前提のもと、涅槃経などで、涅槃の境地にある仏の属性としての我(常楽我浄の四徳の一つ)を大我、真我と説く。