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熱原の法難(あつはらのほうなん)

建治元年(1275年)ごろから弘安6年(1283年)ごろにわたって、駿河国[するがのくに]富士下方の熱原地域(静岡県富士市厚原)で日蓮大聖人門下が受けた法難
聖人が身延に入られた後の建治年間、この駿河方面では、日興上人が中心となって弘教を進めており、教勢が拡大していた。当時、駿河国は、執権の北条氏一族が国守[こくしゅ]・守護[しゅご]を務め、特に富士地方には北条重時の娘で時頼の夫人にして時宗の母である「後家尼御前」の家臣が多く、その影響力が大きかった。熱原・滝泉寺[りゅうせんじ]の院主代[いんしゅだい]である行智[ぎょうち]は、そうした北条氏一族の権威をかさにきて数々の悪行を重ねていた。その中で行智は、同寺に在住している僧で大聖人帰依した日秀[にっしゅう]・日弁[にちべん]らと同地域の信徒を激しく迫害した。
弘安2年(1279年)には、富士下方の政所[まんどころ](荘園[しょうえん]を治める家政機関)の代官に働きかけて、4月8日の大宮浅間神社の祭礼の時に信徒の四郎男[しろうなん](四郎の息子)を傷害し、8月には弥四郎男[やしろうなん](弥四郎の息子)を斬首し、その罪を大聖人門下に着せようとした。
さらに9月21日には、熱原の農民信徒20人が、刈田狼藉[かりたろうぜき](他人の田の稲を不当に刈り取る行為)との無実の罪を着せられて不当逮捕され、鎌倉に護送された。行智は虚偽の訴状をつくり、「日秀らが9月21日に多数の人を集めて弓矢をもって院主分の坊内に乱入し、農作物を刈り取って日秀の住房に取り入れた」などと、訴訟を起こした。裁判に向けて作成された日秀日弁らによる弁明書案(「滝泉寺申状」、849㌻)について、大聖人は自ら前半を執筆、後半を加筆・訂正して、応援された。農民信徒たちに対する取り調べは、平左衛門尉頼綱が自ら私邸で行った。拷問に等しい尋問の中で信徒たちは、信仰を捨てて念仏をとなえるよう強要されたが、一人も退転する者はいなかった。ついには神四郎ら3人が斬首され殉教し、残りの17人も追放という処分を受けた。
聖人は、権力による不当な迫害に屈せず不惜身命の信心を貫く熱原の信徒の姿について「偏に只事に非ず」(1455㌻)と仰せになり、「法華経の行者」(同㌻)とたたえられている。そして、この法難三大秘法南無妙法蓮華経受持して不惜身命の実践で広宣流布する民衆が出現したことを機に、大聖人「聖人御難事」を著され、「出世の本懐」を遂げられたと仰せになっている(1189㌻)。
また法難の渦中、南条時光は不当な圧迫を受けながらも、日興上人の指導のもと、強盛な信心を貫き門下たちの外護に当たった。大聖人はこうした功績から時光を「上野賢人」とたたえられている。▷出世の本懐/平左衛門尉頼綱/南条時光/日興上人/日秀/日弁