サンスクリットのシューニヤの訳。すべての事物・事象には固定的実体がないこと。もともとの意味は空虚であること、空ろであること。インド人はゼロの概念を発見したことで知られるが、このゼロにあたるサンスクリットがシューニヤである。最も古い仏典の一つスッタニパータに「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう」(中村元訳『ブッダのことば』岩波書店)とある。すべての事象は刻々と変化してやまず、そこには固定的な実体は存在しない。古代インドの伝統思想(バラモン教)では、人間存在の根底に固定的なアートマン(我)を考えたが、釈尊は、物事を固定しそれに執着することこそ、苦しみの原因であるとして、世界が「空」であると説いた。やがて、この考えは「一切皆空」として仏教の中心思想となる。一切皆空といっても、厭世的、消極的なものの見方ではなく、固定的な偏見や先入観なしに、変化する諸法(一切の事物・事象)の実相をありのままに見ることを意味する。しかし、釈尊滅後約100年以降の、いわゆる部派仏教の時代には、特にすべてのものを実在する実体と考える説一切有部などが出て「三世実有、法体恒有」などの実在論を唱えた。
このような実在論を批判して、大乗仏教では「空」の理論が発展してくる。この大乗の「空」の理論は般若経典に現れ、大乗の論師・竜樹(ナーガールジュナ)によって集大成されることになる。竜樹は釈尊が説いた苦行と快楽の両極端から離れる中道の実践論と縁起の思想を空に関係づけた。すなわち、すべての事物・事象は固定的・実体的な本性(スヴァバーヴァ)がない「空」なる存在であり、他との関係によって生起する(縁起)存在である。しかし、人は事物・事象を固定的に見て、それに執着したり、それを嫌悪したりする。このような偏見や執着を離れて、如実に事物を見て行動していくことが中道にあたる。このように空=縁起=中というのが竜樹の主張であったが、般若経や竜樹の思想が入る前に、中国においては老荘思想の「無」の考えが存在した。故に、「空」が「無」として受け取られ、「無(虚無)」「有(実体)」の両極を離れた「空(中道)」が、「空(虚無)」と「仮(実体として現れる現実)」を離れた「中」であるという図式になった。そして、一切のものを「空」と「仮」と「中」という三つの観点から観察し、その姿(三諦)を如実に認識する(三観)という、中国仏教独特の実践法が現れることとなった。▷三諦/竜樹