鎌倉にある神社。康平6年(1063年)に源頼義[みなもとのよりよし]が安倍貞任の征伐に向かった時、男山(京都府八幡市)の石清水八幡宮の分霊を鎌倉の由比郷鶴岡に祭ったのが始まり。その後、源頼朝が小林郷に移し、ここを下宮とし、後方の山上に本殿として上宮を建てた。鎌倉幕府にとって幕府の守護神そのものともいうべき宗教的中心施設で、鎌倉の街並みも八幡宮を最上に置き、その参道である若宮小路を中軸に構成されていた。毎年、歴代将軍が参詣することはもちろん、8月に将軍臨席のもとで行われる流鏑馬は、幕府の御家人にとって最も重要な行事であった。神宮寺として、その別当職に真言宗の東寺や天台密教の園城寺[おんじょうじ](三井寺)出身の僧が就いていた。
竜の口の法難当時の別当は、隆弁[りゅうべん]であった。前任の定親[じょうしん]が三浦泰村[みうらやすむら]の姻戚であったため宝治の合戦の影響で退任したことから、宝治元年(1247年)に隆弁は補任され、弘安6年(1283年)までの長期にわたりこの職にあった。寺門派の僧で、北条時頼からの信頼が厚く、時宗・宗政[むねまさ]が生まれる時も、安産祈禱を行った。文永2年(1265年)に阿闍梨位に登り、同4年(1267年)に園城寺の長吏に任命されている。