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北条時頼(ほうじょうときより)

1227年~1263年。鎌倉幕府第5代執権[しっけん]。寛元4年(1246年)に20歳で執権に就くや、謀反の疑いがあるとして北条氏庶流の名越[なごえ](江間[えま])光時[みつとき]を伊豆に流し(宮騒動)、翌年に幕府草創以来の対立勢力である三浦氏を滅ぼして(宝治の合戦)、北条得宗家[とくそうけ](嫡流)による執権政治を強化した。建長5年(1253年)に禅宗道隆[どうりゅう]を開山に迎えて建長寺を創建した。康元元年(1256年)に時頼は大病を患い、執権職を長時に委ね、出家して道崇[どうすう]と称し、最明寺入道[さいみょうじにゅうどう]、最明寺殿と呼ばれた。しかし、その後も実質的に幕府における最大の影響力を保持した。
日蓮大聖人は文応元年(1260年)に「立正安国論」(17㌻)を著され、北条得宗家に仕える武士(得宗被官)である宿屋入道[やどやにゅうどう]を通じて時頼に同書を上呈し、第1回の国主諫暁を行われた。「故最明寺入道見参御書」(御書全集未収録)には「(禅宗は)天魔の所為たるの由、故最明寺入道殿に見参の時これを申す。また立正安国論これを挙ぐ」とあり、大聖人が直接に時頼と会見し禅宗を破折したことが知られる(ただしその時期については不明)。大聖人は「安国論」上呈後まもなく、鎌倉の草庵を襲撃された(松葉ケ谷の法難)。また弘長元年(1261年)5月には執権・長時[ながとき]が、強盛な念仏者であった父・重時[しげとき]の意をくんで大聖人を伊豆の伊東に配流した。しかし、重時が間もなく変死し、同3年(1263年)に大聖人は赦免された。後年、この赦免について、流罪が讒言による無実の罪であることを時頼が知ったために赦免したと大聖人は述べられている(1190㌻)。▷「立正安国論」/江間氏/道隆