『摩訶止観』巻5の文。内心では明らかに覚っていること。「内鑑」は心の内を鏡に映すように見ること。「泠然」は覚ること。同書には「天親・竜樹、内鑒泠然たり、外には時の宜きに適い各権に拠る所あり(天親や竜樹は内心には一念三千を明らかに覚っていた。しかし外に対しては時代に適した教えを説こうとして自分の立場をそれに合わせた)」とある。
日蓮大聖人は「観心本尊抄」でこの文を引かれ、天親(世親)・竜樹について「これらの聖人は心の中では知っていながら言わなかった人々である。あるいは迹門の教えはわずかながら説いたが、本門と観心の教えについては何も言わなかった。衆生の機根はあっても説くのにふさわしい時が至ってなかったのか、あるいは機根も時も、ともになかったのだろうか」(245㌻、通解)と仰せである。また「開目抄」で「一念三千の法門は、ただ法華経の本門寿量品の文の底にだけ沈められている。竜樹や天親は知っていたが、取り出して説くことはしなかった。ただ私が尊敬する天台智者大師だけがこれを自らのものとしていたのである」(189㌻、通解)と仰せである。▷世親/竜樹