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叡尊(えいぞん)

1201年~1290年。「えいそん」とも読む。鎌倉中期の真言律宗の僧。思円[しえん]ともいう。戒律の復興を志し、衰退していた奈良の律宗寺院・西大寺[さいだいじ]に入り、密教による加持祈禱や文殊信仰を取り入れ、真言律宗(西大寺流律宗)を起こした。朝廷や貴族の公認のもと、非人の救済と称して京都・奈良周辺の非人支配を実現した。弘長2年(1262年)には北条実時[ほうじょうさねとき]らの要請で鎌倉を訪れ、時頼ら幕府要人をはじめ多くの人に授戒し影響力をもった。これが、先に関東に来ていた弟子の良観忍性)が鎌倉へ進出する契機となった。祈禱僧としても広く知られる。弘安4年(1281年)の蒙古襲来の際、閏7月1日、蒙古船が折からの台風で難破大敗しているが、ちょうどこの日、叡尊は石清水八幡宮で蒙古調伏の祈禱を行っており、蒙古軍敗退が叡尊の功績のように喧伝された。この叡尊の風聞は下総国(千葉県北部周辺)の富木常忍にまで伝わり、そのことを彼は日蓮大聖人に報告している(993㌻)。
叡尊教団の“非人救済”】叡尊は各地を巡って喜捨を募る「勧進[かんじん]」活動を行ったが、勧進聖は納骨にも関わっていたので、西大寺の律僧は葬送・納骨に関与していった。当時、遺体処理と葬送には既存の共同体から疎外された「非人」が関与し、鎌倉時代の非人は京都や奈良の都市周辺に独自の共同体である「非人宿」を作り、「長吏」を頂点とする自治組織を形成していた。叡尊は葬送を共通項として非人と結びつき、1242年から非人の救済事業を開始する。しかし、その実態は救済の名のもとに非人を労働力として利用するものであった。叡尊は朝廷や貴族と結びつき、その公認のもとで京都・奈良周辺の非人支配を実現した。この方式を関東にも持ちこみ、良観のもとで非人支配・利用を行った。▷極楽寺良観/律宗/真言律宗