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(ごう)

サンスクリットのカルマンの漢訳語。カルマンの語根には「行う」「作り出す」という意味があり、そこから生まれたカルマンは「行い」「振る舞い」という意味となる。古代インドのバラモン教では、この「行い」として、世襲的聖職者階級であるバラモンによる祭式の執行が安楽の境涯を保証するものとして強調された。これに対して仏教では「行い」を本来の日常の振る舞いという意味に戻して、人間としての行いこそが苦楽の果報の原因であり、善なる行い(善業)を励んで行う人が安楽の境涯を得られることを説いた。
①心身の種々の行為のこと。仏教では、業を大きく身体的行為(身[しん]業)と発言(口[く]業・語業)と感情・思考にかかわる精神的行為(意[い]業)の三つに分け、身口意の三業と呼ぶ。その他にも種々の分析がなされ、多様な分類が示されている。例えば、過去世(宿世)の業を宿業といい、現世の業を現業という。他者が認識できるか否かという観点から、他に示すことのできる表業と他に示すことのできない無表業の二つを分ける。また善悪の観点から、善心に基づく善業、悪心に基づく悪業、善悪いずれでもない無記業の三業に分ける。
②業因のこと。古代インドでは、①の種々の行為の影響がその行為者に潜在的な勢力として残るとし、それが、あたかも種が条件が整えば芽を出し花を咲かせ果実を結ぶように、やがて順次に果報として結実し、同じ主体によって享受されて消滅するとする。なお、後の仏教の唯識学派では、業の潜在的影響力(習気[じっけ])が果報を生み出すもととなることから「業種子」と呼び、それが阿頼耶識(蔵識)に蓄えられているとする。
この業をめぐる因果は、善悪の業(行為)を因とし、その果報として苦楽の境涯を得るという、善因楽果・悪因苦果を説く因果応報の思想として整理された。また、先に述べた、自らの行為(業)の果報を自らが享受するという原則を「自業自得」という。ただし、元来は善因楽果・悪因苦果の両面にわたるものであるが、現在一般的には、自身の悪い行いの報いとして苦悩に巡り合うという悪因苦果の意味でもっぱら用いられている。
業の因果の思想は、輪廻[りんね]の思想とあいまって発達し、業に関する輪廻業報輪廻)からの解放・脱出(解脱[げだつ])の方途が諸哲学・宗教で図られた。仏教ではその伝統を踏まえつつ、縁起という独自の思想として結実し、種々の精緻な理論が発達した。探究の過程で業はさまざまに分類されていくこととなる。
例えば、次の生における十界の生命境涯を決定づける業因(引業)と、その生命境涯における細かな差異を決定する業因(満業)に分ける。
また果報を受けることが定まっているかどうかで定業(決定業)と不定業の二業が説かれる。定業とはその業の善悪が明確であって未来に受けるべき苦楽の果報が定まっている業因をいい、不定業とは定まっていない業因をいう。
さらに果報を受ける時期によって現世の業を3種に分けた、順現受業(現世に果報を受ける現世の業因)、順次受業(次の世に果報を受ける現世の業因)、順後受業(次の次の世以後に果報を受ける現世の業因)の三時業などがある。
業の思想は、初期の仏教では個人の行為に関するものが発達したが、やがて、社会・共同体を構成する人々が共有する業(共業)を考えるようになった。これに対して、個人に固有の業は不共業と呼ばれる。
③②のうち特に苦の果報をもたらす悪業のこと。煩悩(惑、癡惑)から悪業が生まれ苦悩の果報へ至るという煩悩・業・苦の三道が説かれる。仏教における業の因果の思想は、本来、苦悩の原因を探り、その根本的解決を目指すものである。換言すれば、仏教の業思想は、決定論的宿命論ではなく、むしろ宿命転換のための理論である。ところが、部派仏教の時代にはすでに、精緻な分析から煩瑣で硬直的な思想が生まれ、変えられない運命を説く決定論のように理解される傾向が生じるに至った。その結果、江戸時代の一部宗派における差別戒名が象徴するように、本来人間を苦悩から解放するための仏教の業の思想が、かえって種々の差別を固定化した面もあった。これに対して日蓮仏法では、宿業転換を説き、業による束縛からの解放が示される。▷苦/三道/宿命転換