❶サンスクリットのヴィジュニャプティマートラターの訳。自身の心の外にあると思われる事物・事象は、ただ心の認識によって映し出された表象のみである、との意。あらゆる事物・事象(万法)は、心の本体である識が変化して仮に現れたものであり、ただ識のみがあるとする大乗仏教の一学説。
唯識では、従前の部派仏教で主張されていた6種の識(眼・耳・鼻・舌・身・意の六識)のほかに、認識の元となる種子を蓄え熟させ認識の根本を担う心(心王)として、阿頼耶識(蔵識)を立てた。また阿頼耶識から、根源的な自我執着意識である末那識を分立させ、八識を立てる説もある。さらに清浄と染汚が並存する阿頼耶識よりも根本にあって清浄な阿摩羅識(根本清浄識)があるとして、九識を立てる説もある。唯識では、煩悩によってけがれた識を転じて、清浄な智慧を得るという転識得智を図る。また、すべての存在の本性や在り方を有無、仮実という視点から3種に分類し、①遍計所執性(他と区別して実体視して捉えられた物事のあり方)②依他起性(縁起によって生じているあり方)③円成実性(実体視を離れた真実のあり方)の三性を説く。
❷❶の唯識の思想を唱えた瑜伽行派[ゆがぎょうは]およびその流れを受ける諸宗のこと。特に法相宗の別称。またそれらの宗派の思想をいう。4世紀ごろから唱えられた。
【唯識思想の展開】祖とされる弥勒(マイトレーヤ)は『瑜伽師地論』などを著した。その教説を組織立てたのが無著(アサンガ)で、『摂大乗論』などを著した。無著の弟の世親(天親、ヴァスバンドゥ)は『唯識二十論』『唯識三十論頌』などを著し、唯識の思想を大成させた。その後も瑜伽行派は隆盛し、諸学者が輩出されるとともに種々の異説が生まれた。そのうち、陳那(ディグナーガ)に始まる有相唯識派は、無性[むしょう](アスヴァバーヴァ)を経て、護法(ダルマパーラ)によって大成された。護法は『成唯識論』を著し、法の相と性を判然と区別し、現象である相の分析から真実なる性へと至ろうとする性相別体論を唱え、新たな学説を大成した。さらに戒賢(シーラバドラ)から中国の玄奘へと伝えられ法相宗となり、日本へも伝えられた。陳那と同時代の徳慧[とくえ](グナマティ)の弟子である安慧(スティラマティ)には、世親の思想に近い説が伝えられた。これは、陳那らの有相唯識派と対立し無相唯識派と呼ばれる。この派とされる寂護[じゃくご](シャータラクシタ)とその弟子の蓮華戒[れんげかい](カマラシーラ)は瑜伽行派の思想と中観派の思想を統合し、瑜伽行中観派と呼ばれる。その思想は、後のチベット仏教に大きな影響を与えた。またこの派は真諦(パラマールタ)によって中国に伝えられた。
中国への伝承は、曇無讖(ダルマラクシャ)による菩薩地持経、求那跋摩[ぐなばつま](グナヴァルマン)による菩薩善戒経の翻訳で始まった。その後、大きく三つに分かれる。まず、南北朝時代、北魏の宣武帝[せんぶてい]の時(508年)に、菩提流支[ぼだいるし](ボーディルティ)、勒那摩提[ろくなまだい](ラトナマティ)らによって伝承され、世親の『十地経論』に基づく地論宗が起こった。勒那摩提は、如来蔵思想を示した世親著『宝性論』を訳している。次いで梁の武帝によって真諦が548年に中国に招かれ、無著の『摂大乗論』をはじめ多くの論書を訳し、その『摂大乗論』に基づいて摂論宗が起こった。そして唐になって、玄奘によって諸経典とともに唯識の諸論書が645年に伝えられ、翻訳が改めてなされ、集大成された。玄奘の弟子の基(慈恩)は新訳にかかわり、真諦訳などに基づく従前の教説に対して、新訳に基づくとともに、護法の『成唯識論』を重んじ護法の主張を正義として法相宗を確立した。同宗は、太宗・高宗の帰依で一時期栄えたが、やがて華厳宗や禅宗が隆盛する影響で衰微していった。
日本には摂論宗の教義も伝えられたが、ほどなく法相宗の教義が伝えられて法相宗が盛んになり、摂論宗の教義は大安寺・元興寺・興福寺などの諸寺で付属的に学ばれた。法相宗は興福寺を中心に学ばれ、南都六宗の雄となった。五性各別の教義に基づき三乗真実を主張したが、一乗真実を主張する三論宗と論争した。また伝教大師最澄が天台宗を伝えた後、両宗の間に長く論争があった。鎌倉時代に一時、復興するものの、法相宗は衰微した。その精緻な哲学思想は仏教の基礎教理として伝承され、江戸時代には他宗から唯識の学者が出た。
❸唯識の思想を論じた書である唯識論の略称。唯識論といわれるものに『唯識二十論』(世親著)、『唯識三十論頌』(世親著)、『成唯識論』(『唯識三十論頌』の注釈書、護法編著)などがある。