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因果(いんが)

因と果。因とはものごとを成り立たせる原因、果とは因に基づいて起こる結果のこと。
【古代インド哲学における因果論】仏教以前から古代インドでは、善因楽果・悪因苦果という因果応報の思想があり、業の報いとして輪廻すること(業報輪廻)からの脱却(解脱)が探求されていた。伝統的な民俗信仰であるバラモン教では、秘伝の知識をもつ聖職者・バラモンによる祭式が輪廻から解脱できる行い(業)とされていたが、哲学の展開とともに、バラモン教の内外から種々の思想が生まれた。そのうちの一つであるウパニシャッド哲学では、生命の不変の本質とされた我(アートマン)についての知識が重視され種々の思想が展開された。また種々の因果に関する説が生まれ、その一つとして、原因の中に結果の性がそなわり、それが直接的に開き現れるとする「因中有果」説がある。これは、古代インドの伝説的な哲学者である三仙のうち、数論外道(サーンキヤ学派)の祖とされる迦毘羅[かびら](カピラ)の説とされる。これに対して、原因に果は内在しておらず、いくつかの原因が集まってまったく新しい果が発生するとする「因中無果」説を唱えるものもあった。これは、三仙のうち勝論師(ヴァイシェーシカ学派)の祖とされる漚楼僧佉[うるそうぎゃ](優楼迦とも、ウルーカ)の説とされる。さらには、ある時には原因の中に結果の性があって展開し、ある時には原因の中に結果の性がない場合もあるという「因中亦有果亦無果」説を主張するものもあった。これは、三仙のうちジャイナ教の祖とされた勒裟婆[ろくしゃば](リシャバ)の説とされる。
仏教の因果論=縁起説】仏教以前からの善因楽果・悪因苦果の因果応報の考え方に基づいている古代インド哲学の諸説に対して、仏教では、直接因である因が内在するとするが、それが直接的に果をもたらすのではなく、外在的間接因である縁と合わさること(因縁和合)を条件としてはじめて、果が生じるとし、果がもたらされるのは縁によることを強調する。それ故、因縁説、縁起説とも呼ばれる。この事物・事象のあり方を説明する縁起の思想は時代とともに発展し、十二因縁、頼耶縁起など種々の縁起が説かれた。また仏教では、あらゆるものごとが因・縁の和合によって生ずるとし、ものごとに固定的な実体としての我が存在せず(無我)、実体は種々の可能性に満ちた空であると説くので、仏教が説く因果は決定論ではない。これは、自らの心身の行為(業)によって、自己の存在のあり方を主体的に形成する可能性を示している。業についての因果縁起の思想は、今世における行いとその果報としての苦楽にとどまらず、永遠の生命観に則って三世にわたって展開され、輪廻とそれからの解脱に関する因果論となった。
十界各具の因果日蓮大聖人の仏法では、善因楽果・悪因苦果の因果応報の考え方を「常の因果」(960㌻)と位置付けられている。十界の各界の業因とその果報という意味での因果は、「十界各具の因果」という。
因果俱時法華経釈尊と同じ仏知見が一切衆生にそなわることを説くのであるから、この法華経本門に示された元意は、九界仏界も俱に一切衆生の生命にそなわっていることを示すことにあるといえる。これを因果俱時[いんがぐじ]という。衆生己心に本来的にそなわる無始菩薩界本因であり、衆生己心に本来的にそなわる無始の仏界本果である。そして、法華経文底に示された南無妙法蓮華経を信じ実践することによって、仏界の境涯が顕現する。日蓮大聖人は、自身の生命にそなわる妙法曼荼羅御本尊として図顕され、末法の一切衆生が信受すべき本尊とされた。仏界の境涯が顕現しても、九界が無くなることはないが、その悪の働きは消え去り(冥伏)、九界それぞれの特性が仏界によって生かされる。それ故、九界をそなえる凡夫の身そのままで仏界の生命境涯を開き現す即身成仏が可能になるのである。▷因果倶時/宿命転換/本因本果