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本因本果(ほんいんほんが)

法華経本門に説かれる成仏因果のこと。「開目抄」(197㌻)で言及される。本因本果は、始成正覚に基づく爾前・迹門十界因果を、久遠実成を説くことで打ち破り明らかにされた「本門十界因果」である。ここで「十界因果」というのは、九界衆生が仏となる成仏因果を示し、九界が因であり、仏界が果となる。
本門如来寿量品第16に至って「我は実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」(法華経478㌻)と、釈尊久遠の昔に成道して以来、これまで果てしない時間において衆生を救済し続けている仏であるという本地が明かされた。これにより、四教蔵通別円爾前経および法華経迹門)が目指す仏果である始成正覚の境地は、方便として打ち破られたことになる。そして、仏果が打ち破られれば、それに至るまでの因として四教で説かれた種々の因位の修行も同じく方便として退けられる。こうして爾前・迹門成仏因果を打ち破って明かされたのが、「本因本果の法門」である。
そして日蓮大聖人は、この本因本果の内容を「九界無始の仏界に具し仏界無始の九界に備りて」(197㌻)と説かれている。ここでいう本因とは「無始の九界」であり、本果とは「無始の仏界」をさす。法華経寿量品の「我は本菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命は、今猶未だ尽きず」(法華経482㌻)という文は、久遠成道に至るための本因を明かしたものである。すなわち、久遠菩薩道を行じてきたことが成道本因であり、しかもその菩薩の生命は、久遠における成道後もそのまま尽きることなく常住の仏である釈尊にそなわっている。このことは、久遠成道して以後、釈尊九界のさまざまな衆生の姿をとって菩薩道を実践していたことに端的に示されている。また、同じく寿量品に「我は成仏してより已来、甚だ大いに久遠なり。寿命は無量阿僧祇劫にして、常住にして滅せず」(法華経482㌻)とある。この経文は、本果仏界常住であることを教えている。
以上から、久遠実成釈尊常住の生命には、仏界九界常住していることが分かる。これが「無始の仏界」であり「無始の九界」である。こうして、十界を具足しつつ常住する仏という釈尊本地が明かされた。したがってこの本地からみれば、仏は、仏界を現した時も無始の九界から離れているわけではなく、また九界を示している菩薩道の時も無始の仏界がそなわっている。そして大聖人は、この本因本果の法門が説かれたことで「真の十界互具百界千如一念三千」(197㌻)が明らかになったと仰せになっている。▷久遠実成/始成正覚/爾前二種の失/発迹顕本/四教