夏季に故人への慰霊・追善を行う伝統行事。仏教が伝播する過程で、祖先への感謝を示す各地の伝統行事の影響を受けながら、仏教の中で次第に形成されていった。仏教は万人の成仏を願うというその本義に反しない限りにおいて、伝統的な慣習を容認して取り入れてきた。盂蘭盆は古くから、サンスクリットのアヴァランバナが変化したウランバナの音写とされ、「倒懸[とうけん]」(逆さづりの苦しみの意)と訳された。古代イランの言語で「死者の霊魂」を意味するウルヴァンが語源という説もある。近年の研究では、サンスクリットのパラヴァーラナーがインドや西域で変化してウラヴァーナとなったものが音写されて「盂蘭盆」とされたと考えられている。なお、パラヴァーラナーは「自恣[じし]」と漢訳される。古代インドでは仏教修行者たちは法を広めるためにさまざまな地域に赴いていたが、外出・移動が難しい雨季には一箇所に集まって生活して修行する習慣があった。これを雨安居という。その最終日にあたる満月の日には、修行者が互いに誤りを指摘し合い、過ちや罪を告白して反省し許しを請うこと(懺悔)を行う。これをパラヴァーラナーという。この時に、盛大に供養が行われた。
西域に仏教が広がる過程で、この日に供養を行うと過去七世の父母を救うことができるという信仰が生まれ、それがシルクロードの交易などで活躍したイラン系ソグド人などを経由して、中国にも伝わったとされる。中国ではこの自恣の供養を行う満月の日を7月15日(太陰太陽暦では満月はほぼ十五夜にあたる)とみなし、同じ日に行われる中国の伝統的な祭りである中元節の影響も受け、盂蘭盆の行事が形成されていったと考えられている。
盂蘭盆の意義を説く経典に盂蘭盆経がある。同経は現在では中国で成立したのではないかと推測されているが、諸説ある。中国・日本ではこの盂蘭盆経に基づいて行事が行われてきた。日蓮大聖人も「盂蘭盆御書」(1427㌻以下)で、伝統に従い盂蘭盆経の内容を記すとともに、大聖人の仏法の立場からのご指南をされている。そこではまず、盂蘭盆経では、目連尊者が物惜しみの罪で餓鬼道に堕ちた母を自身の力で救おうとしてもかなわなかったことに対し、釈尊が、7月15日に十方の聖僧を集め、さまざまな飲食物を用意して供養すれば救われると説いたと記されている。その上で、目連ほどの人が自身の力で母を救えなかったのは、まだ法華経を知らず成仏できなかったからであると教えられ、そして、正法に背く僧らを1000万人集めても故人を苦悩の境涯から救えないと戒められている。したがって、どこまでも万人成仏を明かした法華経を信受した人の真心の祈りが、故人を救う追善・回向となる。▷回向/追善