定まって変えがたいと思われる運命であっても、正しい仏法の実践によって転換できること。仏教では、過去世の行為が因となって現在世(今世)の結果として現れる、あるいは現在世の行為が因となって未来世の果をもたらすと見る。そして善因楽果・悪因苦果、すなわち過去世の善悪の行いが因となって、今世に苦楽の果報をもたらすという、生命境涯の因果の法則を明かす。
これは仏教の歴史の中で人々を脅し収奪する論理として、しばしば運命決定論的に用いられたが、本来はそのようなものではない。むしろ、自身の運命は絶対的存在や超越的力で決まるものではなく、自身の行いによって決定できるという自己決定権を教えるものであり、自身の今、そしてこれからの行いによって運命が転換できるという宿命転換の思想である。
それでも、善因楽果・悪因苦果という「常の因果」(960㌻)の教えでは、現在の苦しみの原因はわかっても、それを今世において直ちに変革することはできず、未来世にわたって生死を繰り返しながら、一つ一つの悪業の罪を清算していく以外に道はないことになる。このように宿業の考え方は、往々にして希望のない運命決定論に陥りやすい。
これに対して日蓮大聖人の仏法では、法華経に基づいて、万人の内に仏界がそなわっており、それを開くことで成仏し宿命転換できると説く。すなわち、万人に仏界がそなわると説く法華経への信・不信、護法・謗法による因果を明かし、法華経を誹謗すること、すなわち謗法こそが根本的な罪業であり、あらゆる悪業を生む根源的な悪であるとする。そして、不信・謗法という根本的な悪業の報いとして生じる苦悩の境涯を、正法を信じ守り広めていくという護法の実践から内なる仏界を直ちに涌現させることによって、この一生のうちに転換していくことができると明かす。その実践の核心は、南無妙法蓮華経の題目である。御書では、普賢経の文(法華経724㌻)に基づいて、凡夫自身の生命に霜や露のように降り積もった罪障も、南無妙法蓮華経の題目という慧日(智慧の太陽)にあえば、たちまちのうちに消し去ることができると明かされている(786㌻)。▷護法/宿業/業/謗法