御書全集には次の3人の少輔房が登場する。それぞれまったく別人である。
❶京都で増上慢の心を出して「物に狂った」といわれる少輔房。日蓮大聖人の門下であったが退転した。「法門申さるべき様の事」(1268㌻)の御真筆で大聖人御自身が抹消されている文によれば、文永6年(1269年)7月16日にすでに亡くなっているようである。「四条金吾殿御返事」(1168㌻)、「辦殿御消息」(1225㌻)、「上野殿御返事」(1539㌻)などの建治年間の書では、能登房とともに退転者の例として挙げられている。さらに弘安2年(1279年)の「聖人御難事」には「なごへ(名越)の尼せう(少輔)房・のと(能登)房・三位房なんどのやうに候、をくびやう(臆病)物をぼへず・よくふか(欲深)く・うたがい多き者ども」(1191㌻)とあり、日蓮門下の退転者の代表4人の一人に挙げられている。
❷日興上人の弟子の少輔房日禅[にちぜん]。
❸「種種御振舞御書」(912㌻)に記された平左衛門尉頼綱の従者。文永8年(1271年)9月12日に大聖人の松葉谷の草庵を襲った時、法華経第5の巻で大聖人の顔を3度打った人物。▷五の巻の経文