「ほんにんみょう」とも読む。
❶天台大師智顗の『法華玄義』に説かれる法華経本門の十妙の第1。本因(仏になる根本の因=修行)は思議することができない境涯であるから妙という。本果妙に対する語。同書巻7上には、法華経如来寿量品第16の「我は本菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命は、今猶未だ尽きず」(法華経482㌻)の文を解釈して本因妙が明かされている。同書には「本因妙とは、本初に菩提心を発して、菩薩の道を行じて、修する所の因なり。十六王子の大通仏の時に在りて、弘経結縁するが若きは、皆是れ中間の所作にして、本因に非ざるなり……『我は本菩薩の道を行ずる時』は、中間に在らず。是を過ぐる已前に行ずる所の道は、之を名づけて本と為す。即ち是れ本因妙なり」とある。
❷日蓮大聖人が御自身の生命に覚知された法は、法華経寿量品で示された、久遠実成の釈尊が久遠の昔に菩薩として実践し仏となった根本原因の妙法である。このことから、日蓮大聖人の仏法は「本因妙の仏法」と呼ばれる。大聖人は、この本因妙の法を凡夫の自身の生命に護持し、それを南無妙法蓮華経であると現して人々にも教え広められたので、「本因妙の教主」ともいわれる。本因妙の仏法は、凡夫がその身のままでこの一生において実現できる凡夫成仏・即身成仏・一生成仏の道であり、そのあり方を大聖人は御自身の振る舞いを通して教えられている。
これに対し、法華経本門の文上に説き示される釈尊は、久遠の昔に成仏した永遠の仏としての果報を身に現していて、本果妙を表とする。それ故、本門文上の釈尊は「本果妙の教主」といわれる。このような超人的な果報を得るためには、歴劫修行が必要とされる。よって仏法に対する優れた理解・実践の能力が必要であり、いわば、すでに仏道修行を積み重ねてきた熟練者のためのものである。末法の初信の凡夫が実際に実践して成仏する道ではない。▷本果妙