奈良時代に聖武天皇の勅願により、日本全国66カ国の国府の所在地付近に建てられた官寺のこと。僧寺・尼寺の2寺からなる。国分寺は正式には金光明四天王護国之寺[こんこうみょうしてんのうごこくのてら]といい、国分尼寺は法華滅罪之寺といった。天平元年(729年)に長屋王の変があり、また同9年(737年)前後に天然痘が流行して、おびただしい死者を出した。
建立の経緯を述べると、当時、実権を握っていた藤原4兄弟も死に、実権は橘諸兄[たちばなのもろえ]に移ったが、これを不満とする藤原広嗣[ふじわらのひろつぐ]が同12年(740年)、北九州に乱を起こした。それはまもなく鎮定されたが、打ち続く戦乱や悪疫により、朝廷の内外は動揺していた。こうした背景のもとに、特に仏教への信仰心があつかった光明皇后[こうみょうこうごう]のすすめもあって、聖武天皇は同13年(741年)2月に「国毎に僧寺を造り、必ず廿[にじゅう]僧あらしめ、その寺をおのおの金光明四天王護国之寺と為し、尼寺には一十尼あらしめ、その寺を法華滅罪之寺と為せ」と国分寺建立の詔を発した(天平10年とする説もある)。そして釈迦如来を本尊として安置し、七重の塔を建てることとし、金光明最勝王経、妙法蓮華経、各10部を書写しこれを塔ごとに安置させ、読誦すべきこととした。また僧寺には封戸50戸、水田10町を施入した。尼寺には水田10町を施入した。そして中央の奈良には、東大寺を総国分寺として金銅の大仏を建立した。また、総国分尼寺として建てられたのが法華寺である。
国分寺は律令体制と密接に関連していたため、体制が弛緩するにつれて国分寺が衰退したのは当然であった。しかも官寺という性格から、国家依存の安易さに馴れ寺領の運営に熱意がなかったことや、地方豪族を檀越にもたなかったことなどが国分寺没落の因になっている。平安初期にはまだこの制度が保たれていたが、平安末期には地方政治の混乱とともに、国分寺もその意義を失って衰退していった。鎌倉時代には、各国分寺は中央の権力者や大寺に寺領を寄進し、その庇護を受ける傾向が強くなった。室町時代以後はまったく放置され、わずかにその名をとどめるのみで荒廃に帰してしまった。今日でも国分寺跡はほとんどわかっているが、その跡には古瓦、磚[せん]、土器などが出土するとか、礎石や建造物の跡が見られるくらいである。▷東大寺