リンク表示:

日向(にこう)

1253年~1314年。日蓮大聖人の直弟子で六老僧の一人。大聖人からは佐渡公・佐渡房などとも呼ばれていた。大聖人滅後、佐渡阿闍梨民部阿闍梨[みんぶあじゃり]と称された。大聖人の鎌倉在住期の早い時期に大聖人の弟子になったとされている。大聖人佐渡流罪の時には佐渡に同行したとの伝承はあるが、明確な記録は残っていない。建治2年(1276年)ごろ、日向は主に安房地方との連絡を担当し、そこに居住する信徒と大聖人の間を往来し、指導に当たったようで、「報恩抄」浄顕房義浄房に届けたのも日向であると推定されている。また、駿河地方においても日興上人弘教をともにしていたことがうかがえる。弘安5年(1282年)10月8日、大聖人から六老僧の一人に列せられたが、13日の大聖人の御入滅の時は他の地へ赴いていたため、葬儀には参列していない。また、身延の墓所を守る輪番の一人として加えられたが、実際に身延に参詣したのは、弘安8年(1285年)ごろと推定される。この時、身延を管領していた日興上人は、日向を学頭として迎え入れた。しかし、日向の影響下で地頭波木井実長が、①一体仏の造立、②二所(箱根・伊豆の両権現[りょうごんげん])と三島神社[みしまじんじゃ]の参詣、③九品念仏[くほんねんぶつ]道場の建立、④福士(山梨県南巨摩郡南部町福士)の塔供養などの謗法を犯したことが契機となり、日興上人は正応2年(1289年)春に身延を離山することになった。「原殿御返事」には、日興上人日向を「彼の民部阿闍梨世間の欲心深くしてへつらひ諂曲したる僧、聖人の御法門を立つるまでは思いも寄らず大いに破らんずる仁よ」(編1732㌻)と見ていたことが記されている。▷日興上人/波木井実長