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北条時宗(ほうじょうときむね)
1251年~1284年。鎌倉幕府第8代
執権[しっけん]。第5代
執権・時頼[ときより]の子。
御書では「
相模守殿[さがみのかみどの]」「
守殿[こうどの]」「
相州[そうしゅう]」などと呼ばれている。文永5年(1268年)閏正月の蒙古[もうこ]国書到来の国難を迎えて、18歳で第8代
執権となる。
日蓮大聖人は同年、
「立正安国論」の予言が的中したことを示し、各宗への
帰依をやめ
正法に
帰依することを求める書状を時宗に送られた(169㌻)。時宗は蒙古を迎え撃つ臨戦態勢を整えて文永・
弘安の役に対処し、その後も国防強化に努めた。こうした戦時体制の強化とともに、
密教による大々的な祈禱が展開された。大
聖人はこれを「
真言亡国」と批判されたため、反体制的異分子と目された。文永8年(1271年)の大
聖人の教団への大弾圧も、こうした社会情勢の中で企てられていった。文永11年(1274年)3月、大
聖人は
佐渡流罪を赦免になるが、その背景として、
佐渡流罪が
讒言による無実の罪であることを知った時宗が赦免を決定したと記されている(1190㌻)。同年4月8日、大
聖人は鎌倉で
平左衛門尉頼綱[へいのさえもんのじょうよりつな]に対し、蒙古の襲来が本年中であると予告されるとともに、特に
真言を用いることをやめるよう警告された(287~288,357~358㌻)。時宗がその場に居合わせたかは不明だが、頼綱は
侍所[さむらいどころ]の
所司[しょし](=次官)であり、時宗がその
別当[べっとう](=長官)であるから、大
聖人のこの訴えは時宗への
諫暁であったと考えられる。これは、第3回の
国主諫暁[こくしゅかんぎょう]とされる。時宗は時頼と同じく
禅宗に傾倒して
道隆[どうりゅう]に師事し、
中国から
無学祖元[むがくそげん]を迎えて鎌倉に円覚寺[えんがくじ]を建立した。逝去の直前、
無学祖元について
出家し法号を道杲[どうこう]と称した。法光寺を建立してからは、
法光寺殿[ほうこうじどの]とも呼ばれた。▷
蒙古襲来