?~1293年。鎌倉時代の武将。平頼綱[たいらのよりつな]のこと。平金吾[へいのきんご]とも呼ばれる。幕府の第8代執権[しっけん]・北条時宗[ほうじょうときむね]および第9代執権・貞時[さだとき]の時代に内管領[ないかんれい](北条得宗家の家令)として絶大な権力をふるった。左衛門尉は、左衛門府(皇居の門の警備を行う部署)の三等官のこと。日蓮大聖人は十一通御書の宛先の一人として頼綱を選び、「一天の屋梁」「万民の手足」たる幕府中枢の武士として姿勢を改めるように諫められている(171㌻)。
文永8年(1271年)9月の竜の口の法難の時には、侍所[さむらいどころ]所司[しょし](=次官、長官は執権の時宗なので実質上の最高位)の地位にいたと考えられ、大聖人を捕縛した中心人物として、大聖人の一門を弾圧した。また、この法難の際、9月10日の尋問の時と12日の捕縛の時、さらに佐渡流罪赦免後の文永11年(1274年)4月8日、大聖人は頼綱と直接に対面して諫暁されている(183,287,911~912,921㌻)。
弘安2年(1279年)の熱原の法難の際、頼綱は鎌倉へ呼び寄せた熱原の農民信徒20人を自邸で自ら尋問するとともに、次男の飯沼判官助宗[いいぬまはんがんすけむね](資宗)に蟇目[ひきめ]の矢を射させて拷問し、改宗を迫った。そして神四郎・弥五郎・弥六郎を処刑し、残りの17人を追放した。
その後、頼綱は権力の頂点を極めたが、熱原の法難から15年目の永仁元年(1293年)、長男・宗綱[むねつな]の密告により謀叛を企てたとして執権・北条貞時に攻められ、次男・助宗とともに滅ぼされた。このことを日興上人は「法花経の現罰を蒙れり」(「弟子分本尊目録」)と記されている。▷竜の口の法難/熱原の法難/蟇目の矢/三度のかうみょう