リンク表示:
日本への仏教伝来(にほんへのぶっきょうでんらい)
日本への仏教初伝は6世紀とされる。公伝(公的な伝来)については、出典により諸説あるが、特に
欽明天皇の時代の、552年と538年の2説が知られている。
日蓮大聖人は「
千日尼御前御返事」に「日本国には、人王第30代・
欽明天皇の御代、同天皇の統治13年(552年)、この日本より西の
百済国という国から聖明王が日本国に仏法を渡した」(1309㌻、趣意)と仰せであるのをはじめ、諸御抄で
欽明天皇13年=552年説を用いられている。この552年説は、日本最初の勅撰の歴史書である『日本書紀』に見られる。552年は、当時、
中国で用いられていた
正法1000年・
像法500年説に従うと、
末法元年となる。この点を指摘する学説もある。『日本書紀』は、大
聖人御在世当時から20世紀にいたるまで、仏教伝来を語る史料として広く用いられてきた。一方、538年説は、「
元興寺縁起」(
伝教大師の
『顕戒論』で引用)や『上宮聖徳法王帝説』に見られ、近年の研究ではこちらの説が有力視されている。この公伝以前にも、韓・朝鮮半島や
中国からの渡来人が私的に仏教を伝えたと考えられる。その他、継体天皇[けいたいてんのう]16年(522年)に来朝した漢人の司馬達等[しばたつと]が大和国坂田原に草堂を結んで
本尊を安置・礼拝したという記事(『扶桑略記』)や、朝鮮史料から548年とする説もある。『日本書紀』によると、仏教公伝当初、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏が争い、
用明天皇2年(587年)に物部氏が滅びて正式に仏教が受容された。そして、
用明天皇の皇子である
聖徳太子が仏教を手厚く保護し、
『法華義疏』などを著すとともに、法隆寺や
四天王寺などを建立したとされる。日本仏教の興隆は寺院の建立に負うところが多く、これが
飛鳥文化・
天平文化の中心をなした。奈良初期には三論・成実・法相・俱舎・律・華厳の
南都六宗が出そろった。