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伝教大師(でんぎょうだいし)

767年あるいは766年~822年。最澄[さいちょう]のこと。伝教大師は没後に贈られた称号。平安初期の僧で、日本天台宗の開祖。比叡山[ひえいざん](後の延暦寺[えんりゃくじ]、滋賀県大津市)を拠点として修行し、その後、唐に渡り天台教学と密教を学ぶ。帰国後、法華経を根本とする天台宗を開創し、法華経一仏乗の思想を宣揚した。晩年は大乗戒壇[だいじょうかいだん]の設立を目指して諸宗から反発にあうが、没後7日目に下りた勅許により実現した。主著に『守護国界章』『顕戒論』『法華秀句』など。
桓武天皇らの帰依伝教大師は生涯にわたり、桓武天皇[かんむてんのう]、その第1皇子・平城天皇[へいぜいてんのう]、第2皇子・嵯峨天皇[さがてんのう]の帰依を受けた。天台教学の興隆を望む桓武天皇の意向を受け、唐に渡り天台教学を究め、帰国後の延暦25年(806年)、伝教の「天台法華宗[てんだいほっけしゅう]」が国家的に公認された。これをもって日本天台宗の開創とされる。大乗戒壇設立の許可が下りたのは、嵯峨天皇の時代である。
【得一との論争】▶三一権実論争[さんいちごんじつろんそう]
【南都からの非難】伝教大師は37歳の時、唐に渡り、台州および天台山で8カ月間学んだが、都の長安には行かなかった。そのため、日本の南都六宗の僧らは「最澄は唐の都を見たことがない」(『顕戒論』巻上、237㌻で引用、趣意)と言って、仏教の本流を知らないと非難した。日蓮大聖人は、これを釈尊天台大師が難を受けたこととともに挙げられた上で、「これらはすべて法華経を原因とすることであるから恥ではない。愚かな人にほめられることが第一の恥である」(同㌻、通解)と仰せになっている。▷天台宗