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延暦寺(えんりゃくじ)

比叡山[ひえいざん](滋賀県大津市)にある日本天台宗の総本山。山号は比叡山。山門または北嶺とも呼ばれる。延暦4年(785年)7月、伝教大師最澄比叡山に入り、後の比叡山寺となる草庵を結んだことを起源とする。同7年(788年)、一乗止観院(後の根本中堂)を建立し薬師如来本尊とした。唐から帰国した伝教大師は同25年(806年)、年分度者2名を下賜され、天台宗が公認された。ここに比叡山止観業[しかんごう]と遮那業[しゃなごう]を修行する僧侶を育成する制度が始まった。伝教没後7日目の弘仁13年(822年)、大乗戒壇の建立の勅許がおり、翌・同14年(823年)、延暦寺の寺号が下賜され、大乗戒による授戒が行われた。
天長元年(824年)6月、勅令によって義真が初代天台座主となり、戒壇院や講堂が建立された。承和元年(834年)、第2代座主円澄らが西塔に釈迦堂を、嘉祥元年(848年)、第3代座主円仁慈覚)が横川[よかわ]に首楞厳院を建立。寺内は東塔・西塔・横川の三院に区分され、山内の規模も整った。教学面では伝教没後、空海弘法)の真言宗が勢力を増す中、円仁は唐に渡って密教を学び、帰国して『蘇悉地経疏』『金剛頂経疏』を作るなどして天台宗の教義に密教を積極的に取り入れた。第5代座主円珍智証)はさらに密教化を進めた。円仁の弟子であった安然顕密二教を学び天台密教を大成した。康保3年(966年)に第18代座主となった良源[りょうげん]は中興の祖といわれる。
しかし良源没後は後任の座主をめぐって対立が起こり、円仁門徒と円珍門徒の争いが激化。正暦4年(993年)に円珍門徒は山を下って別院の園城寺[おんじょうじ](三井寺)に集まり、これから後、延暦寺は山門、園城寺は寺門として対立が続いた。このころ比叡山守護神を祭る日吉神社が発展し、後三条天皇[ごさんじょうてんのう]の行幸以来、皇族らの参詣が盛んに行われた。その権勢を利用して山門は、朝廷に強訴する時に日吉神社の神輿を担ぎ京都へ繰り出すなど横暴を極めた。平安末期になると山門の腐敗堕落も甚だしくなり、多くの僧兵を抱えた叡山は源平の争いには木曾義仲[きそよしなか]と結んで平家と対立し、承久の乱には後鳥羽上皇に味方した。
日蓮大聖人は立宗前に比叡山で修学されている。また法然源空)・親鸞[しんらん]・一遍[いっぺん]・栄西大日能忍・道元[どうげん]など、鎌倉時代に活躍した多くの僧が比叡山で学んでいる。▷比叡山/天台宗/伝教大師/年分度者/止観業/遮那業/円頓の大乗別受戒の大戒壇/義真/円澄/円仁/円珍/園城寺